総務部予防保健課 食養生の料理店2

金曜日、定時で仕事を終えた私は、予約の時間よりも少し早く神農に到着した。

「あ、ジョーちゃん、いらっしゃい。4月からの件、そろそろ大詰めだよね。今日は私も最後に同席させてもらうことになってますんで。」

「お〜お~、そうだねぇ。もう3月だからねぇ。4月の段取りは概ね完了。本当に忙しかったなぁ。オーナーもここからまた一段と忙しくなるからねぇ。とりあえず、今日も季節の料理を堪能させてもらって、これからのビジョンをはっきりさせてやらないとねぇ。頼んどきますよ。」

「大丈夫よ。今回のプランのための食材の調達ルートは2年以上前から継続して相談してきてるし、実績も積んできてる。信頼関係も構築できてきてるし心配ないわよ。でも、いよいよね。食と医療で会社の人たちの健康をサポートする事業が、私たちの手でやっと形になるわけね。」

「この5年間、ミドーくんが治療院経営を軌道に乗せ、神農も人気店になって、それぞれ実績を積んでこれたから、ウチの事業と上手く融合しあって、従業員の人たちの健康を根本からサポートできるモデルケースになるはずなんだよ。本当に楽しみだわ。でも、私がツインの人たちから信頼を得られてるかが問題だけどね。こればっかりは真面目に働くことしか方法はないし、こっちはこっちでそこそこ大変だったんよ。」

「ジョーちゃんの頑張りと社長さんの理解があってこそのこのプランよ。それは関係者みんなが分かってるって前から言ってるじゃない。そこは安心して良いんじゃない。もちろんここからが本番なんだけどね。」

奥の座敷に案内された私は、壁にかけられた淡い黄緑の手ぬぐい飾りに目をやりながら、テーブルに着いた。

 

しばらくして、ミドーくんとアツコさんが、19時を少し過ぎた頃に社長が到着し、今月の食事会が始まった。

「皆さん、お待たせして申し訳なかったね。ちょっと今日の件で役員会が長引いてね。いや、前向きな議論が白熱してねぇ。ま、詳しい話は後だ。先に食事にしようか。さぁさぁ、始めよう。食べよう。」

この人がツイン工業株式会社代表取締役社長、甲田寛。5年前、私をツイン工業に採用し、同時に今回の我々のプランがより理想的な形で実現するよう、労働環境の整備、行政や役所との調整、各種業界団体への根回しや情報発信、アイデア提案までしてくれた、言うなれば縁の下の力持ち、影の立役者だ。

厚手のコートをハンガーにかけ終わり、最後に社長が席に着いたところで、今月の食事会が始まった。

前菜は、筍と人参の卯の花和え。食前酒は紀州から取り寄せた梅酒だ。

総務部予防保健課 食養生の料理店1

今週末は社長との夕食兼ミーティングの日だ。私は友人が経営する料理店に予約確認の連絡を入れた。

「はい、ヌーベルシノワ神農でございます。」

「お〜お~、繁盛してるんかな。癸生河だけど。オーナーはどうしてる。」

「あ、いつもお世話になっております。ジョーさん。料理長ですが、今買い出しに出ておりまして、あいにく。」

「あぁそう。相変わらずじっとしてないヤツだねぇ。ま、忙しいんなら結構結構。ところで今週金曜の予約、大丈夫かな。」

「もちろんです。毎月第1週の週末は、ツイン工業様に特別メニューをご提供する機会ですので。」

「ところで、今週末なんだけど、いつもの三人に、もう一人女性が参加することになってるんよ。席は増やせる?」

「もちろんです。では、4名様の個室で、19時からですね。コースの節気は啓蟄を意識しておりますので。」

「そやね、もうそんな時期なんやね。ま、その辺はオーナーにお任せで。よろしく〜」

 

私がツイン工業でお世話になり始めてから、もうすぐ5年。社長との神農での会食も相当な回数を重ねてきた。私がこの会社にお世話になり始めたのは、神農での出会いがきっかけだった。当時、私は雇われ鍼灸師として一つの治療所を任せられる程度の実績は積み始めていたが、如何せんこの業界では雇われであるウチはなかなか十分な食扶持を得ることは難しかった。専門学校の学費捻出に奨学金を受けていた私は、その返済のためにも一定の収入は必要で、神農で薬膳ソムリエを副業にしていた。薬膳ソムリエとはこの店ならではの前菜サービスを提供するスタッフの呼び名だ。その日訪れたお客さんの体調や好み、季節なども踏まえて前菜の内容を提案する。もちろんその他の料理や量はお客さんが好みで選べるが、店側は前菜を選んだ際の情報をもとに、季節の移り変わりと旬の食材を用いながら、味付けや使用する食材のバランスをお客さんの体調に合わせて調整できる。その時の体調に合わせた味付けになるのだから、美味しい、嬉しいと感じてもらえる機会は自ずと増えてくる。尚且つ体調が整う効果も感じられるのだから、この界隈ではなかなか予約の取れない人気店になっていた。

神農は、和食の料理店だが、薬膳の考えを強く意識している。世にいう一流の料理店、一流の料理人たちは、医食同源の考え方に精通しており、お客さんの健康につながる食事を提供するという。神農はオープン当初から医食同源をコンセプトとしており、和食薬膳のスタイルを通じて、健康につながる食を提供しようとしている。昨今の健康ブームの中でも、かなり本格的な健康志向の料理店だ。

と言うのも、東洋医学には食養生の概念があり、治療の際に食事内容の確認や見直し、提案などを行うことも多い。季節の食材や味のバランスから症状の改善をサポートするわけだ。私は、東洋医学の知識を生かして食養生のアドバイザー、すなわち薬膳ソムリエとして働いていた。そして、この神農の料理長、私がオーナーと呼ぶその人物も、また鍼灸学校の同級生である。彼女は料理人としてのキャリアを併せ持つ異色の鍼灸師だ。

総務部予防保健課 ジョーさんの存在2

その日以来、周りの皆さんはジョーさんのことを私に色々と教えてくれるようになった。

どうやらジョーさんも俺と同じ中途採用で、4年ほど前にツイン工業に入社してきたらしい。

以前は香川県の企業に勤めていたけれど、脱サラして鍼灸師の資格を取ったとか。でも、鍼灸師としての仕事が上手くいかなかったのか、ウチの会社に再就職したそうだ。ご本人はネタのように「戻りサラ」なんて言ってるらしい。元々は化学が専門のプロセスエンジニアだったそうだ。会社の皆さん、ジョーさんが鍼灸師の資格を持っていることは良くご存知だった。確かに、入社まもない私の耳にも噂程度には聞こえてきていた。身体をメンテナンスできる人がいるとかなんとか。今回朝から動けなくなった時にはシンさんの勧めもあって、すぐに助けてもらいたいと思ってしまった。そんな感じで、健康面で問題があったらジョーさんに、なんで雰囲気が社内に出来上がっているのが事実で、皆さん色々と不安なことがあったら、気楽に相談に行くらしい。もちろん御堂鍼灸院のことも皆さんよくご存知だった。しかし、品質管理の部署に鍼灸師ってなぁ。なんだか鍼治療ってお医者さんや薬剤師さんとは違って、化学やら工程管理やらとは、ちょっと畑違いな感じだけど。これまであまり接点がなく、お名前と品質管理の係長さんってことだけしか知らなかった人だが、実際仕事面では皆さん異口同音に「品質管理の仕事っぷりは内にも外にも厳しいよ」なんて言われている。要するに企業内での仕事の評判は良い。しかしどこまで聞いても俺にとっては、腰痛を楽にしてくれた鍼灸師の先生の印象が先行する。会社の中にそんな人がいるなんて、正直便利な存在だな、なんて思っていた。

総務部予防保健課 ジョーさんの存在1

「す、すいません。寝坊してしまいましたっ!」

翌日、私の朝は寝坊の言い訳とともに始まった。始業5分前に事務所に到着した。腰は嘘のように軽くなったものの、熟睡した感覚と倦怠感で朝、起きられなかったのである。いつもは始業の30分前には出社して、前日の残りや今日の予定を確認しながら同僚が出勤してくるのを待ち構えるのが私のスタイルだが、今日は迎えられる立場だった。完全な寝坊である。扉の横のセンサーに社員証をかざした。ピッ。

「いいっていいって。チョーさん真面目やから、入社以来ずっとみんなよりも早く来て仕事の準備始めてくれてるけど、そんなに気張らんでいいんじゃないの?ほれ。」

「おざ〜っす。ピッ。」

若手の社員が一人、私よりも後に入ってきた。

「彼でも遅刻じゃないんだから。まぁ、全員が全員、始業ギリギリってのもどうかと思うけど、チョーさん、もう一本電車の時間遅くしてきてもいいんじゃない?あ、これ、課長の意見だからね。」

事務所の奥で課長がニコニコしている。どうやら昨日の腰痛騒ぎは、思いのほか皆さんに気を遣わせるハメになってしまったようだ。そりゃそうか。早退までさせてもらったんだから。

「皆さん、昨日の朝はお騒がせしました。どうにか大丈夫ですんで。色々ありがとうございます。お気遣いなく。」

私は深々と皆さんに頭を下げ、荷物を置き、始業のラジオ体操に向かった。

 

10時過ぎ、休憩時間を見つけて、品質管理課に訪れた。

「癸生河さん、昨日はありがとうございました。お陰で昨日の騒ぎが嘘のように。」

「お〜お〜、昨日は大変やったねぇ。ま、深刻やなくて良かった。普段から身体は鍛えてるみたいだし、ちょっと生活リズム整えりゃ、大丈夫だろ。」

「ところで、昨日メールで、朝起きれないって書かれてましたけど、当たったんですけど。なんで予言できたんですか?」

「当たったって、私は預言者じゃないよ。瞑眩反応だって。昨日、ミドーくんトコでじっくり治療してもらっただろ?どうせ奴の事だから、ガッツリ効果出そうとして、日々君のようなタイプには治療し過ぎてるって思ってなぁ。まぁ彼の患者さんに良くなって帰ってもらいたいって気持ちは分かるんだけど、まぁ。」

「治療し過ぎですか?そんなのがあるんですか?俺、今朝、いたって元気なんですけど?」

「あ〜、ごめんごめん。誤解して欲しくないんだけど、瞑眩反応って言ってな、初めて鍼治療受けたような人に出やすいんだけど、刺激が強すぎて身体がビックリしてしまうんだよ。実際はフツーの状態になるよう身体のバランスを整えただけなんだけど、君の身体はフツーよりも緊張が強くなり過ぎてたから、フツーに戻した時の身体の緩み方が大きくなりやすくてね。だから今朝はスイッチが切れたように身体が緩みまくってたわけよ。ヨダレ垂らすほど熟睡できんかったか?」

「え?うわ、ぜったい預言者ですよ、係長!」

「なぁ、日々君、これを機にカカリチョーとか、キブカワさんとかやめんか?みんなジョーさんって呼んでくれるから、それで頼むわ。で、君の昨日の治療な、インナーマッスルを緩めてやったはずだわ。で、オーバードーゼって言ってな、良い刺激が強すぎて眠くなったり、疲れを感じたりするんだよ。」

「あ、はい、じゃあ、ジョーさん、インナーマッスルってストレッチとかでどうにかなるって言うコトですか?」

「お、そうそう。その意識、いいねぇ。ちなみにミドー君の実際の治療内容は、私は知らないからね。彼はもちろん私も患者さんの情報って、まぁ院の部外者には漏らさないから。で、インナーマッスルのストレッチ、普段やってる?」

「え、いや、すいません。まったく。」

「まぁそういう系のストレッチやるぐらいの時間や気持ちの余裕があったら、昨日みたいな状態にはなってなかっただろうしなぁ、ごめんごめん。それを言っても仕方ないな。インナーマッスルのストレッチ、ちょっと勉強してみ。検索したら動画なんかがいっぱいあるだろ。気持ちいいで。あ、検索するならチョーヨー筋な。」

「え、いや、ジョーさんってスゴいっすね。鍼灸師って、、、」

話しかけたところで、休憩時間終了のチャイムが聞こえてきた。

「日々君、ま、まずは自分の身体を整えながら、色々勉強していこうや。私のことはおいおいな。またゆっくり飲みにでもいこうか。あ、酒は止められてるか?ははっ!」

チョーヨー筋だったか。俺は昼休みに動画検索してみた。

総務部予防保健課 丁寧な問診と初めての鍼灸5

「はい、では、今日のところはこんな感じですかね。立って腰の様子を確認してみましょう。」

御堂先生は改めて両手首の脈を交互に確認しながら、治療終了を告げた。

「あ、はい、ありがとうございます。え???うそ。スッゲェ軽い!痛みもつっぱりもない!おぉ~!」

「あ~、まだ無理はしないでくださいね。とりあえず緊張してた部分を緩めておきましたんで、今日はこのまま帰宅してもらってゆっくり休んでください。明日の朝にはもっと楽になってると思いますよ。最後に日々さんの身体の状態と腰痛が起きた経緯を説明して、ちょっと生活のアドバイスをさせてもらってから、次来て頂く日を決めましょうか。」

「あ、はい、いや、これ十分ですよ。治ったっすよ。驚きました。」

「まぁどうぞどうぞ、まずはこちらにお掛けください。今日は長い時間ありがとうございました。少しは症状が改善したようで良かったです。始めの症状を10としたら、さて今はどの程度でしょうね?」

「え?そうですねぇ。」

腰を捻りながらあえて数字に表してみた。

「半分、いや正直それ以下、3ってとこでしょうか。」

「良いですねぇ。先程、ご本人は治ったような感覚でおっしゃられていましたけど、よくよく考えるとゼロじゃないでしょ?油断大敵ですよ。今の感覚を覚えておいてもらって、5を超えてくるような場合は、すぐに電話やメールでいいですので相談してきてください。」

「これ、すぐまた悪くなったりするんですか?」

「そうですねぇ、まだまだ寒い時期が続きますから、今のうちにしっかり身体を休めておかないと、春先にまた調子が悪くなる可能性がありますねぇ。2月の節分までもうすぐですから、今が用心しどきですねぇ。」

「節分?豆まきの?あと2週間ほどですね。春と何か関係あるんですか?」

「節分って、立春の前の日でしょ?まだ節分って寒い時期ですけど、実はもう春が始まるんですよ。だから日々さんはこのタイミングで治療に来られてて良かったと思います。春になる直前ですが、今から次の季節に向けて体調コントロールを始めましょう。今日、治療に使わせてもらいました鍼灸っていうのは、東洋医学の理論を用いているんですけど、東洋医学と季節の移り変わりっていうのは密接な関係があるんですよ。日々さん、花粉症が少しあると書かれてましたよね?これ、今から治療を始めておけば今年の花粉症は少し楽になるかもしれませんね。転職されたばかりで気苦労やら寝不足やら、無理されてきたみたいですから。この後は季節を意識しながらご自身で養生していくことが再発防止のコツですよ。」

「え?腰痛治療と花粉症って?」

 

私は部屋の片隅にある椅子に座り、ホワイトボードで何やら東洋医学の治療方法と今回の私の腰痛の原因について説明を受けた。

 

どうやら、年末年始の暴飲暴食と寝不足、仕事上の気疲れで内臓が弱っているところに、寒さが追い討ちをかけたとのこと。ただ、季節がどうのこうのというのはよく分からなかった。とりあえず今日以降、しばらくは冷たいビールは我慢して、アルコール自体飲む量を控えるように言われた。夜は温かい風呂に浸かってよく寝るように言われたのは守ろうと思った。そういや最近忙しくてシャワーばっかりだった。冷たいビールは真冬でも習慣のように飲んでたけど、確かに芋のお湯割りでも気分的には問題なさそうだ。飲み過ぎ注意か。腰痛とどう関係があるんだ?何はともあれ、腰の調子は良くなったのは確かだ。ただ問診票に花粉症ありとは書いたものの、今の体調と花粉症がどのように関係してくるのだろうか?正直なところ変わったことを言う先生、と言うのが第一印象だけど、実際に腰の調子が良くなってるんだから説得力がすごい。

そんなことを考えながら、私は自宅に戻りがてらスマホから癸生河さんにメールで連絡をした。

『ご心配おかけしました。とりあえず、腰の調子は良くなりました。明日はいつも通り出勤しますので。シンさんにもこの後連絡しておきます。次は3日後に来るように言われましたので、御堂先生の治療院には仕事の後に伺う予定です。』

『ご苦労さん。シンさんにはこっちから言っとくよ。今日は暖かくして早めに寝な。多分、明日の朝は起きるのキツいぞ。』

また不思議なメッセージが返ってきた。私は朝はめっぽう強い方なんだが。鍼灸師ってのはよく分からん。

総務部予防保健課 丁寧な問診と初めての鍼灸4

数分間は待っただろうか、問診テーブルで問診票とホワイトボードに何やら書き込んだあと、ベッドに戻ってきた先生はおもむろに

「んじゃ、鍼して行きますね。」

「え?いや、そりゃそうですけど、ハリ?さ、刺すんですか?どこに?」

鍼灸院に来て鍼治療は避けて通れないとは思っていたけども、いざ実際に刺されると聞くと流石に不安になる。すると先生はうつ伏せになった私の視線に入るようにニコニコと腰をかがめながら

「大丈夫ですよ。鍼治療専用の鍼っていうのは髪の毛みたいに細いんですよ、ほら、これ見えますか。」

真っ直ぐな銀色の鍼だ。想像よりもちっちゃくで細くて短い。こう言っちゃ変だが、なんだかシンプルで綺麗なハリだ。

「それにうつ伏せだし、背中になら見えないでしょ?大丈夫ですよ。これを筒を使って痛みなく一瞬で刺します。アルコール消毒は大丈夫ですね?じゃ、顔は好きな方向けてもらって、リラックスしててくださいね~。」

消毒のヒヤッとした感覚の後、大きな手がふわっと背中に添えられた。次の瞬間、トトンっと小刻みに叩かれたかと思ったら

「はい、終わりましたよ。今どうですか?」

「え?今刺さってるんですか?」

という問いかけるや否や、先生の指が鍼に触れ、少し動かしたのが分かった。

「あ、刺さってる。おっ、そこっ、おうっ!あぁ~それっ!」

かつて触れられた事のない腰の痛みのポイントを身体の奥でトントンと刺激され、ずぅーんという感覚が腰全体というか、腹の方まで伝わる。

「じゃ、このままちょっと目を瞑ってゆっくりしましょう。また声をおかけしますね。」

脇腹のあたりにコソコソと何かをおいたかと思ったら、足元にあった全身が隠れるタオルケットをばさぁっと背中全体にかけてきた。鍼にひっかるんじゃないかと思ったけど、なんともなかった。私は腰のあたりの痛気持ちいい感覚と、変に力を入れると痛いんじゃないかという思いで、積極的に全身の力を抜こうと意識した。結果、そのまま眠りこんでしまった。

 

「はい、日々さん、ご気分いかがですか?鍼、外しますね~。」

ふと目覚めた瞬間、全身が脱力してベッドにヨダレを垂らしてしまっていた。タオルケットを少しずらし、何やら触れたかと思ったら、消毒のヒヤッとした感覚が伝わってきた。

「あぁ、すいません、寝てしまってました。なんだか最近寝不足だったもので。どれぐらい寝てました?」

7分ですよ。はい、ではもう鍼は外れてますので、ゆっくり起き上がってみましょうか。次、仰向けになりましょう。」

「あ、はい、そんなもんだったんですか?もっとぐっすり寝てしまったような。あれ?腰を捻っても違和感がない!」

「えぇ、よく効いてましたね。得氣が凄かったですよ。」

「とっき?え、いや、なんだか腰も腹も温かくなってますわ。それより肩も楽になって視界もスッキリしたような。」

「良いですねぇ~。とりあえず痛いところを狙って直接楽にしましたんで、次は根本の治療です。手足のツボに鍼をして行きますんで、仰向けになって楽にしてください。全身のバランスを整えていきます。」

もうこうなったら、完全に言われるがままだ。足首や手に鍼を刺された後、もう一度先生が腹をグッと押さえたら、初めの痛みが嘘のように消えて、自分の腹が柔らかくなっているのが分かった。

「では、仕上げて行きますね。最後にお腹に刺激を加えます。」

と言って、金色の細い棒と黒いハンマーのような物を取り出した先生は、腹の上で軽快なリズムとともに棒を叩き始めた。腹に押しつけられた棒の先からハンマーの振動が腹の奥に伝わってくる。

総務部予防保健課 丁寧な問診と初めての鍼灸3

「さて、今回の症状の原因について伺いたいことは概ね以上です。あとは実際に身体に触れながら治療方法を考えて行きましょう。あ、その前に今の姿勢で結構ですので舌を見せてもらえますか。ベロ、ベェってお願いします。」

「舌?ベェ?あ、はえ。れもなんれ?」

「はい、OKです。じゃあ鼻先を舐めるイメージで、下の裏っ側を見せてください。」

「ふぁい、こ、こうれひゅか?」

「なるほど、昔ちょっと怪我されました?」

正直、何をさせられているのか疑問ばかりだが、なんだかすっかりこの先生のペースに巻き込まれている。言われるがまま従ってしまう。その後、立った状態から前後左右に倒したり捻った時の腰の痛み具合を確認して、やっとベットに寝転がることができた。

「では、続いて手首の脉の様子から身体の状態を診ますね。左手からいいですか?はい、続いて右。じゃもう一度、左右同時に。」

手首を指で挟んで触れてきた時の感触が忘れられない。温かく柔らかく分厚い指だ。ふわっと触れたかと思ったらぐうっと押したり小刻みに弱めたり捻ったり。脈拍を測っているというわけではなさそうだ。

「では、そのままお腹を触らせてくださいね。」

上着をめくりあげてお腹を出したところ、遠目に眺めたかと思ったら、合掌した手でそっと腹に触れてきた。掌全体も温かくて柔らかい。その後ぐいっとへその左横を押してきた。

「あいたたたっ、なんですかそれ!?」

「ここよりもこっちですよね?」

更にへその反対側を押されると奥の方にズーンと股間の方に響く重い痛みが走る。スッと位置をずらし下っ腹の股関節あたりをぐいっと押された瞬間

「おうっ!そこはなんとも痛いですわ。」

「はい、わかりました。すいません、痛いところばっかり探ってしまって。じゃあ次はうつ伏せになれますか?上着は今脱いでもらっていいですか。」

「あいったいかぁ、この動きは。」

少し体を起こし、身体を捻ろうとしたところで、腰に痛みが走った。うつ伏せになると身体が強張る。

「では、ちょっと背中を触って行きますね。ここっ。」

「そこっ」

なんで痛いところが的確に分かるんだろうか。腰というより背中。押された瞬間に痛気持ちいい感覚で腰が伸びたように思える。

「では、しばらくそのままゆっくりしててくださいね。伺った情報を整理してきますね。」

「は、はい、え?このままでいいんですか?」

「ええ、うつ伏せでいいですよ。背中から治療して行きますんでね。」