総務部予防保健課 予防保健課の発足2

「13時に甲田様と面会をお願いしております、木村と御堂です。食堂の定期視察もお願いしております。」

「はい、お待ちしておりました。木村様、御堂様。まずは応接室ではなく、一般社員食堂にご案内するよう仰せつかっておりますが、お間違えないでしょうか。ご案内いたします。」

食堂に通されたダイチの表情は、もう既に仕事モードに切り替わっていた。

「入り口の換気よし、消防設備の周辺よし、消毒設備よし、照明よし、スタッフの服装よし、配膳の向きよし、、、」

ぶつぶつ言いながら、専用シューズに履き替え、調理担当のスタッフとともにキッチンの奥に消えていった。

「さーて、年末以来かな、ここでの食事は。企業のランチでこんなに旬を意識した食事を提供してもらえるなんて、ツインさんってほんと恵まれてるよなぁ。」

「御堂先生、最近の食堂ランチはレストランと提携している企業も多いですよ。ま、ウチほどの規模だと珍しいかもしれませんけどね。」

「あぁ、甲田社長、お世話になります。今日もよろしくお願いいたします。」

「さて、御堂先生、混み始める前にさっさと食事を済ませましょう。旬の食材だけでなく味付けや調理方法までこだわってる食堂ランチはまだまだ珍しいでしょうからね。さて、今日の汁物はなんですかな。」

甲田と御堂が席についてまもなく、アツコが合流。ダイチもすぐにやってきた。試食とかいってフツーの配膳の1.5倍は惣菜の器が並んでいた、というか重なり、トレーからはみ出ている。彼女は本当によく食べる。

 

食事を終えて、応接室に通された二人。御堂は、早目にやってに来たアツコの脉を診ていた。

「うん、良いんじゃないかな。当帰芍薬散は続けてるんだね。」

「はい、産業医の先生にお願いして処方箋を頂いてます。薬局もすぐに準備してくれますし。」

「あなたの場合、飲み会が多すぎるよ。色々と付き合いが良いのは良いんだけど、眠りが浅く、次の日まで疲れが残ってることが多すぎる。」

「はーい、注意しま〜す。」

 

そんな会話をしていると、甲田がタブレットを持ってやってきた。

「さて今日は癸生河くんは、オンラインで参加だ。これでメンバーは揃ったな。さて、先週末はありがとう。今日は皆で週末に考えてもらった部署の名前を詰めて行こう。おーい、癸生河くん、聞こえるかい。」

総務部予防保健課 予防保健課の発足1

週明け月曜の午前中、大地は、御堂鍼灸院に居た。

 

「ミドーくん、週末はお疲れ様でした。今年の花粉症患者さん、準備はどうなの?」

「そうですねぇ。ウチの患者さんは皆さん、冬の養生に努めて下さってますので、今年はかなりマシだと思いますけどねぇ。夏冬関係なくトレーニングジムで汗流してサウナで汗流してっていう人はまだまだいるので、ダイチさんトコの食でフォローして頂けるとありがたいっすねぇ。」

「そうね。身体を動かして発散することはいいんだけど、やり過ぎはね。健康ブームは広まっても、季節感みたいなものはなかなか伝わらないわよね。料理の世界は旬の食材なんかがあって四季が伝わりやすいんだけどね。」

「韓流とかいって、真冬に唐辛子ばんばん使って汗流してって一時期流行った頃は、花粉症やアレルギーの患者さんひどかったからねぇ。去年あたりから生姜ブームが流行ってくれてちょっと助かりますねぇ。」

「治療院が忙しいのはいいことなんだけど、患者さんが多いっていうのは複雑ねぇ。啓蒙活動頑張ってね。」

「で、ツインさんの新しい部署の名前、考えました?」

「ミドーくんはどうなのよ。我々の意見も取り入れてくれるみたいだし。嬉しい話よね。」

「僕ですか。僕はシンプルで伝わりやすい方がいいんですよねぇ。なるべく東洋医学を知らない人たちが気軽に僕らの医療を受けられるよう、間口を広く設けたいんですよねぇ。一企業内で保健医療の部署を設置すること自体フツーじゃなんだから、むしろ意外なぐらいフツーの名前がいいのかなぁと。」

「私も同感ね。まずは敷居を低く、門戸を広くってのがいいわね。ま、そのあたり既にジョーちゃんが会社に馴染んで頑張ってくれてるし、ずいぶんハードルは低くなってると思うけどね。」

「僕は未病じゃなくて、もっと鍼灸や東医って名前でシンプルに表したら如何かななんて思いますけどね。」

「え?鍼灸保健課、東医保健課って感じ?何処が意外なぐらいフツーなのよ。ミドーくんも十分世間からズレてるからねぇ。聞く人からしたら十分あやしいわよ。」

「え〜、そうですかぁ?未病保健課よりはいいんじゃないですかぁ?じゃあダイチさんはどうなんですか?」

「私はね、予防保健課。病を日頃の行いの中で予め防いで、健康を保つ活動を推進するための部署よ。」

「ふーん、悪くないですねぇ。意外なぐらいフツーの名前。」

「とりあえず、今日の話し合いは13時だったわね。12時前にツインさんの食堂に行って昼ご飯も一緒に頂けるようお願いしてあるから。たまには社食がどんな感じで提供されてるか確認しときたいからね。」

「ダイチさんといると、食事に困らないから助かるな。」

御堂と大地は、ツイン大阪事務所に向かった。

総務部予防保健課 食養生の料理店7

ということで、今日の時点で部署名の決定は保留され、新しい部署の発足とその目的、各自の大まかな立ち位置について情報共有された。アツコさんだけは少し肩身が狭そうな雰囲気を漂わせていたが、社長の人選眼は確かなものだったし、その他のメンバーは社内外での彼女の評判を知っているだけに、何も心配はしていなかった。

そう、彼女は外国語が堪能な上、インドネシアで幼少期を過ごし、シンガポールのインターナショナルスクールを卒業、日本の大学に通うようになってからは、日本語だけではなく日本の歴史文化についても熱心に学んだという、多様な価値観と努力する意志を併せ持つ有能な人材なのだ。日本人のみならず外国人相手にも、自身のアイデンティティをしっかり保った上で、会話の流れと相手の意図を汲み取り、話をまとめ、要点を引き出し、場を作り、調和を求めて周囲を引き込む、根っからのファシリテータだった。ツイン工業には社長の行動力と人徳に惹かれ、各方面から人材が集まってくるが、彼女もまた社会を動かすリーダーになるであろう人材の一人である。彼女の個性は今後社内で新しい福利厚生サービスを展開していく上でも、実際の治療を進めていく上でも役立つであろうことを、周囲は十分理解していた。

 

神農での夜は更けていく。

皆それぞれが社員の健康への意識や福利厚生のあり方、理想、そこに至る手段や課題、時間軸など規模の大小に関わらず、意見を交換しあった。

食後のデザートには立派な苺が運ばれてきた。

総務部予防保健課 食養生の料理店6

「え、いや、社長、大事なこと、前から気になってた新しい部署の名前は。」

「あぁ、そうそう、アツコくん。部署の名前だけど、正直取締役会でも意見が割れてなぁ。最終的にワシに一任されたんだけど、今日この場でみんなの意見を聞いてから決めようと思ってなぁ。すっかり忘れてた。」

「で、どうするんですか?やっぱり東洋医学っぽい名前にするんですか?」

「そう、アツコくんもワシと同じでそっち派だったな。実はそこんとこで役員の意見が割れたんだわ。最終的にワシが提案したのは『未病保健課』なんだ。」

「あ〜、『未病』って言葉は製薬会社のCMなんかでも使われてて、耳にするようになってきてますもんねぇ。いいんじゃないですか?東洋医学の雰囲気が伝わってきて。」

社長から大事な話が発表されたと思ったら、矢継ぎ早に部署名の話が社長とアツコさんの間で盛り上がってきた。

 

ここで鍼灸師組が意見を始める。

「さて、どうよ、オーナー。やっと社内での活動が正式承認されるわけなんだが、名は体を表すというし、ちゃんと話あっておきたいたいもんだねぇ。基本的には部署名なんてウチの会社の中の話だが、少なからず関係して来ることだからねぇ。ちょっと素人受けを狙いすぎてないかな、これは。」

「そうねぇ、未病の本来の意味を考えるとねぇ。未病は既に病に一歩踏み込んでる状態だしねぇ。」

「未病っていう言葉は『未だ病にあらず』という状態を表していて、よく誤解されがちだけど、病が症状として未だ現れていないということであって、既に体が病気に傾いて、一歩踏み込んでる状態。東洋医学では既に治療対象になるれっきとした『病』の第一段階なんだよね。CMの関係か『未病』って言葉の響きが一人歩きしてるけど、未病は『未だ病気じゃない』って思われてる感じだよね。正確には『未病を治す』のが正しいので、『未病保健課』っていうのは、『不定愁訴保健課』みたいに症状を冠するようで、正直、変かな。」

「お〜お~、相変わらずズバッと否定してくるねぇ。しかし今の説明で伝わったかなぁ。ま、でも社長、ミドーくんのいう通り、私もちょっと引っかかりますねぇ。」

「おぉ、そうか、やっぱりワシはまだ未病という言葉の意味がよく分ってないみたいだな。ダメか。」

「ダメというわけじゃないですが、東洋医学の概念はまだまだ世間一般に市民権を得られている訳ではないですので、周囲に与える印象はなるべくハードルを下げてやるべきかと思います。ま、神農なんて古典の神様の名前を冠してるウチが言うことじゃないかもしれませんけどね。ハハッ。」

「そうかぁ、なら名前については、来週また考え直そうか。御堂くんとダイチくんは癸生河くんに意見を伝えてもらえないかな。社内掲示は4月1日だから、まだ少し時間はある。最後はワシが承認するだけだから。」

総務部予防保健課 食養生の料理店5

「社長こそ話が硬くなってるんじゃないですか。私は自分の意思でツインさんに就職させてもらい、楽しくやらしてもらってます。その延長線上に今日があっただけで、これ皆法縁ってヤツですよ。」

「癸生河くん、こっちこそホントに助かってるよ。現に30代以下の従業員の離職率は5年前から減少傾向だ。そして皆さん、今日は更に高みを目指して新たなスタートラインに立てることを報告したいと思う。」

「あ、あの、その前に社長、私のコト、皆さんとこうやってお会いするのは初めてなんですけど、本当にこの話に参加させて頂いてよろしいんでしょうか?」

「アツコくん、君にはここからとても大きな役目を担ってもらうことになるんだよ。東洋医学の専門家ではない君の、一般社員としての立ち位置と感性がこのグループには必要になって来るはずだ。」

「は、はぁ。私ってインドネシアでの生活が長く、日本の常識さえ十分じゃないのに、何かお役に立てるのかなぁ。」

「お〜お〜、社長もみんなも、そろそろ今日の話の本題に入りませんか。皆んな満腹で眠くなってきてるんじゃないですか。」

「そうだな。では、まず今日の取締役会で決定した内容と、今後の方針について説明し、皆さんからの賛同を得ようかな。」

社長は姿勢を正し、少し冷めた手元のコーヒーでゴクリと喉を潤した。

 

「では、本日のツイン工業取締役会で決定したことから伝えよう。来期、すなわち約1ヶ月後の今年4月より、総務部内に新部署の設置活動を開始する。そして仮運用の期間を経て、本格的な活動開始は下期の10月からだ。部署の目的は、所属従業員全体への福利厚生サポートの充実。すなわち、従業員が体調を崩す前に、そして体調を崩さないようにするための活動を通じて、企業活動を下支えし、企業利益に貢献することが最大の目的だ。メンバーは今日この場にいる癸生河くん、アツコくん。癸生河くんは品質管理課と兼務という形で社内に駐在する鍼灸師として活動してもらう。社内の一室を治療院として利用できるよう役所への申請手続きも3月末までには完了する予定だ。アツコくんには女性スタッフを中心に社員のお悩み相談窓口になってもらう。もちろんウチの20%近くを占める英語やバハサを母国語とするスタッフも丁寧に対応してやってほしい。様子を見ながら、場合によっては部下も付ける。社外アドバイザーとして、御堂くんとダイチくん。あなた達二人の立ち位置はこれまでと同様だが、これからは積極的に部署の活動に口出ししてもらいたい。アドバイザー契約料もお支払いする。あ、あとこれは君らにはどうでもいいことだろうけど、総務部長にはもちろん十分に話を通してるし理解を得ている。何よりワシは総務部を含めた管理部門の責任者を兼務してるから、基本的にワシが社内の責任者だ。金銭面、人材面で不自由な事があったら、総務部長に相談して、ワシんとこにもってこい。ワシからは以上。」

総務部予防保健課 食養生の料理店4

「さて、今日の食事も堪能したことだし、そろそろ今日のミーティングを始めようか。ダイチさんもいいかな?自分のコーヒーも持ってきてくださいよ。」

社長が満足した表情で話を切り出した。

「はい、では私もお邪魔いたします。皆様本日のお食事はお楽しみ頂けましたでしょうか。釈迦に説法とは存じますが、本日のテーマは啓蟄、大地に芽吹く春の息吹を感じて頂ければと考えてお食事のテーマを選ばせて頂きました。」

「いやいや、ダイチさん、いつも美味しい食事をありがとう。皆の表情を見れば満足度合いは十分伝わるんじゃないかな。美味しかったですよ。特にワシはあの鶏肉の煮込んだヤツが、身も柔らかくて手が込んでる感じがしたねぇ。」

「はい、近頃は醸造メーカーさんも様々なお酢を準備されておりまして、もちろん鶏肉がメインではありますが、お酢の味を強くさせてもらっても嫌味がなく、楽しんで頂けるのではないかと考えてみた料理です。」

「酸味は曲直を助けるからねぇ。冬の養生が足りない現代人の体を、春の氣に沿わせるのにはうってつけの食事だね。」

「ミドーさん、曲直なんて言っても、伝わるのは我々だけですよ。」

「お、ワシ分かるぞ。春は肝の発揚だろ。」

「現代人は肝の発揚よりも、年中、脾の昇清、補中益気湯が必要な場合が多い。」

「はいはい、ミドーさん、話が徐々に脱線してってます。社長さん、流石ですね。肝氣の巡りが伝わる方なんてなかなかいらっしゃいませんよ。」

「あの、す、すみません。私だけ全然話について行けなくて。」

「あ、ごめんなさいっ。あなたがスミスさんね。確か前にもいらしてくれてたわよね。年末の時期でバタバタしてて厨房から出てこれなかったの。ご挨拶が遅れました。木村大地と申します。」

「あ、はい、アツコ・スミスです。アツコでお願いします。神農のダイチさんのお話はジョーさんやミドーセンセーから常々伺ってます。ウチの会社がいつもお世話になっております。いつも美味しいお食事を提案して頂き、ありがとうございます。」

ダイチは、社長の提案で、ツイン工業の食堂の料理を監修していた。

「こちらこそ、いつもお世話になりっぱなしですよ。企業さんと提携して日々の昼食を監修させて頂く機会なんて、そう滅多にないことですしね。それも我々のような東洋医学に根差したコンセプトで活動しているグループに興味を持って頂けて、我々も本当に良い経験をさせて頂いています。甲田社長、改めてお礼を述べさせて頂きます。ありがとうございます。」

「まぁ、硬っ苦しい話は無しにしてだな。君らはそれぞれの立場でよくやってくれてると思いますよ。お陰さんで今日は皆さんの将来のビジョンについて取締役会で一定の賛同を得ることができた。これも皆、癸生河くんがウチの会社にきて、未病についての啓蒙活動を根気強く続けてくれたからだと思うな。あぁもちろん、御堂先生の治療院が全面的にサポートしてくれていることも取締役含め多くの社員が理解していることだし、ダイチさんの日々の献立が食養生という世界への理解をより容易にしてくれてることも本当に素晴らしいことだ。ウチの社員は皆、実体験で我々の目指す目標の素晴らしさを理解してくれていることだろう。」

総務部予防保健課 食養生の料理店3

「今年はまだまだコートが手放せない冷え込みだけど、もう暦の上ではとっくに春なんだよねぇ。ワシも季節の話がだいぶわかるようになってきただろ?」

「そうですよね、社長。立春なんて昔からいうワリには節分の次の日なんて全然意識してなかったし、まさか2月にもう春が始まってるなんて、こんなに寒くて、フツー思いもしませんよね。」

「アツコくん、これが実はな、先日アパレル業界の会合に出席した際にエライ話が盛り上がったんだけど、衣料品を扱う方々は、二十四節気をちゃあんと意識してて、販売計画を立てる際の参考にもしてるそうなんだよ。」

「へぇ〜、じゃあ、2月辺りからもう春物を?あれ、でもホントだ、言われてみたら春物や秋物のショーウインドーって、まだ寒かったり暑かったりする頃から衣替えが始まりますもんねぇ。」

「実際は、季節の先取り感で街行く人たちの注目を集めて、気持ちの準備してもらうことが目的みたいなんだけど、これが二十四節気のタイミングとぴったり合うらしい。」

「おもしろ〜い。季節の移り変わりに敏感な感じがして、ちょっと意識高い系ですね。この話、明日、女子社員達にしても良いですか?」

「あっちゃん、東洋医学の基本、陰陽五行の基本概念となる大自然の営み、星の動きは、鍼灸術が成り立ち発展したはるか昔の時代から何も変わってないんだよ。季節の移り変わりも星の動きと同じで、旧暦を用いた時代から何も変わってないんだよ。だから我々の鍼灸術も現代に通用するわけで。」

「お〜お~、ミドーくん、アツコさんに熱弁振るうのはいいけど、次の料理が運ばれてきくるよ。」

新ジャガと春キャベツのサラダに、鶏肉のさっぱり煮。

「酸味が食欲を刺激しますね。彩りも鮮やかだし、何より美味し〜。」

「あっちゃんは、この店は何回か来てるよねぇ。」

「前、センセーに教えてもらって、年末に友達と来させてもらいましたよ。その時はおでんがオススメだって言われて、本当に美味しかった~。」

「ほう、アツコくん、あのおでんを食べたんやね。冬至の時期だったか、我々も頂いたね。ワシは根菜盛り合わせとか言われて、大根だけじゃなくて、ごぼうやレンコンなんかも巾着で頂いて、そりゃ美味かった。」

「え〜、私は昆布巻や練り物を頂きましたよ。大根もジャガイモも美味しかった~。」

「いかん、職業病だ。出された料理の内容を聞くと、それぞれの料理の意図や食養生を説きたくなってしまう。」

「ははっ、ジョーさん、僕もですよ。ま、その辺はまた次の機会にダイチさんに任せましょうよ。この会の目的は季節の食事を楽しむことですから。」

蒸し物、焼き物、次々と運ばれて来る季節の料理を堪能し、ひとしきり会話も落ち着いたところで、料理長のダイチが最後のご飯ものを運んできた。

「さて、本日のお吸い物は大振りの蛤が手に入りましたので潮仕立てにしてみました。山菜の炊き込みご飯、上の木の芽はもちろん食べて頂けますが少し苦味がございます。お好みで柚子の皮を擦って散らしますが、如何しますか?お吸い物もご飯も柚子の香りは合いますよ。香の物は春キャベツです。おかわりが必要な方はご遠慮なくお申し付け下さい。」

「ほぉ、これはまた贅沢なシメだなぁ。ワシはどっちも柚子ふってもらおうかな。」

皆の表情をさっと見渡し、手際良く鬼おろしと竹のおろしばけを使って、全てのお椀に柚子を散らしていく。部屋の中に爽やかな香りが立ち込めた。

ダイチは、店のスタッフに指示を出しながら手際良く下げ膳を済ませ、食後のコーヒーの準備を進めた。